2008年10月23日

[読了] 小説の楽しみ

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小説はどこまで自由なのか?
現代文学最高の担い手である著者・小島信夫が、<小説>をめぐって語り尽くす。
小島ファン待望の語り下ろし。 (帯)
全国1万人の(おそらくそんなにいない)小島信夫読者必読の書「水声通信No.2〜小島信夫を再読する」でおなじみの水声社から、昨年12月に小島信夫の作品が2冊同時刊行されたことは記憶に新しい(ノジマ家の購入時のドタバタ

水声文庫というシリーズだが、大きさは四六版。小島信夫の地元である国立ロジーナ茶房にて、2005年4月から6月まで3度にわたって語り下ろされた貴重な小説論(のようなもの)である。語り下ろしのためか、文章は全体的に柔らかく読みやすいが、その内容は骨太で一筋縄ではいかぬ手応えがある。

小島信夫という人物を知らない人は、随分と愚痴の多い老人だな、という印象を持つだろうか。ともすれば不快感を覚えるかもしれない。江藤淳の姑息さ、森敦の自己顕示欲、意地悪な川村二郎、海上雅臣の自惚れ。しかし、小島信夫の賢明な読者ならば、それらの愚痴にも小島流の解毒が確実に施されていることにたやすく気付くことだろう。

第1章の「『別れる理由』の現代的意味」という論考は、著者自らが「どうしてああいうことをしたのか」説明を試みる興味深い内容になっている。「失敗作であることを小説の内部から宣言する」作品を書いてしまった恩恵として、様々な想像力のアウトプットの方法が自由に使えるようになった、と著者は語る。確かに「別れる理由」以前と以後の作品を読み比べてみると、小説としての枠組みも、ひいてはあの独特の文体さえも孤高のものとして確立されている。筆力が違う、迫力が違う。そういった観点から観れば「別れる理由」は大傑作なのか失敗作なのかという議論はそれほど重要なことではないのかもしれない。

もつれたりほどけたりしながら流れていく著者の小説論に読者は次第に没入し、小説・評論・エッセイといった境界線のない小島信夫という磁界に飲み込まれていく。しかし、本書の一番最後に登場する「ここまでにしておきましょう」という唐突な台詞に、ふと我に返る思いがした。あ、そうだ、これは語り下ろしだった、と。「小説修業」の中でも、保坂氏が「ここまでにしておきましょう」という一言について触れていたように記憶しているが、多分に小島信夫的な口ぶりであり、思わず吹き出してしまいそうになる。

意識的な反段取り的方法。無意識なポストモダン。「別れる理由」を中心とした自作解説として、また、秀逸なカフカ&チェーホフ論としても楽しめる一冊である。
posted by ノジマコブオ at 00:00| 読了