2008年10月06日

[読了] 美濃

mino.JPG [Amazon: 初版 / 文庫]
今こそ<故郷>に声をかけねばならぬ気持にかられる作者の、頑是ないほどに可憐な心情!<美濃>の過去と現在が交錯する風景の中に登場する、作者とその友人たちの分身。自由奔放に展開する物語は全く新しい手法の「故郷小説」であり、同時に作者の「自画像」である。 (帯)
岐阜県図書館で開催中の小島信夫展、11月に行くことに決めた。そうそう何度も足を運べる土地でもないので、どうせなら堀江敏幸氏の講演会に参加してみようと日程を合わせた。そして、名作の誉れ高き「美濃」はあらかじめ読んでおかなくてはなるまい、と読み始めることにした。「美濃」を購入した日のワクワクした気持ちは忘れられない。あれからだいぶ時間が経ってしまったが、小島信夫の小説はいつだって最初のページを繰る瞬間は気分が高揚する。

先日読み終えた単行本「釣堀池」に収録されていた短篇「ガリレオの胸像」。この作品の直筆原稿が、岐阜の古書展に出たらしい。「私の作家評伝」の挿絵を描く平山草太郎は、風呂で倒れて意識不明になった際にも絵筆を中空に走らせていた。「いらんこと聞かんでもええ」と、文学的フンイキを拒絶した古田(小島信夫)の母親。出番は少ないながらも、「月山」の作者である林貢(森敦)の存在感はギラリと光る。電話での古田との会話の途中、林に別の電話が入る。電話を切らずにそのまま待つように古田に告げ、林は離席する。林が戻ってくるまでの間、古田は篠田賢作との「各務支考」についての議論を思い出す。拡散していく思考。「美濃」が連載されていた雑誌『文体』の編集に携わっていた古井由吉も登場する。登場するといっても、他人の話の伝聞の形である。なぜ古井は本名なのか。飛び降り自殺の巻き添えをくらい、重傷を負った古田は入院することとなり、この物語からセミリタイアすることになる。そして語り部は祥雲堂主人→祥雲堂若主人と変遷する。矢崎剛介と篠田賢作、岐阜にまつわる両詩人の不仲。古田の文学碑建立にまつわる諸問題。矢崎・篠田・古田の3者のやっかいな感情は物語の最後にほんのわずかではあるが変節することになる。

「美濃」を最後まで読み終え、僕の頭の中に散らばっていることを、思いつくまま書き連ねてみた。全く面白い小説に思えないのは、言うまでもなく僕のせいだ。不正確な記述もあると思う。それにしても、上で列挙したエピソードをどんな順序で並び替えようとも、「美濃」という小説は成立してしまうことは驚異的だ。どこから読み始めても構わない。なのに、そこには序章から終章まで厳然とした「連なり」がある。特筆するほどトリッキーな小説的手法が用いられているようには思えない。しかしもうなにがなんだかわからない。

「岐阜的なもの」とはなにか。答えは混沌としている。
posted by ノジマコブオ at 00:00| 読了